D   幼駒のしつけ

     上欄のはじめに(目次)」をクリックしてから開始すると便利です

D  1   母と仔の絆

 

                            ※ 絆(キズナ)・・・・・信頼感・安心感に裏打ちされた

                        仲間意識を意味する感情的愛着 

          <スキン・シップ>

JRA「優駿」誌上の話。96年のダービー馬・フサイチコンコルド号は母バレークイン号が妊娠中に輸入され、3ヶ月後に誕生。環境が変わり、その上初めての出産で興奮した母は、わが仔の頚を咬んだ。牧場では“母仔の絆が出来るまではヒトは見守るだけ”と言うのが常識だった。しかし、治療の必要があり注射や手当てを施した。すると、この誕生直後のスキンシップ(治療行為)により、フサイチコンコルド号はヒトに信頼感を持ち、後の調教・馴致が極めて簡単だった。この経験から、生産者のノーザン・ファームでは、全ての生産馬に対して誕生直後からスキンシップを施すようになった、との事である。

D  2 歴史認識が足りない?<我国の牧場で良く見られること>

※ 誕生直後の“横臥する仔馬”愛着を感じ追従する動物 ・・・・・

                     ・・・・・・⇒《寝ている自分の上に、のしかかる

                           ように現れて動くモノ            

                      =●母親 ・・・→●群のボス・仲間

              

  

D  3   刷り込み

          刷り込み・・・・・・絵やメッセージ等を紙や器物に印刷するように、

               後天的に心に付加して以後の行動に影響を及ぼすこと

D 4 三つ子の魂、百までも

三つ子の魂、百までも・・・・幼児期の行動様式は、大人になっても継続する譬え(格言)

D 5 ビリケン爺さんの話<米国の牧場で、祖父が孫に教えた事>  

         ビリケン・・・・米国・民間信仰の福の神(後頭部の突起した子供の姿)

 

        <環境と価値観>

 

 米国ペンシルバニア大学で研修した時、フィラデルフィア郊外の牧場に下宿してみた。通学途中に、 馬に乗って遊んでいる子供に何人も遭って、日本の子供との違いに驚いた。さらに、同大学の テク二シャン(女性助手)が離婚して乳飲み子と馬を連れて近くに下宿していると言う話 を聞き、犬の間違いではと思い聞き直した。価値観の違いだけじゃないナ。

D  6   心の中に“パソコン”がある <経験と記憶>

D  7   妥協する「思いやり」が仇(アダ)

          <馬具の装着>

 

 一般に“馬具”は馬の動きを制限するから、出来るだけ負担がかからないようにする。

競走馬の鞍は半斤鞍(300g)・一斤鞍(600g)・一斤半鞍などと[食パンなどの重さをしめす “”]で表し障害競馬用の鞍は五斤鞍が普通だった。 昭和50年頃の<メートル法遵守令>により呼称だけになり、一番軽い鞍を一斤鞍(400g)とし二斤鞍は(600g)で普通は三斤鞍(750g)を使うようになった。  頭絡関係では、銜(ハミ)は口角に2本の皺(シワ)が出来るように、鼻革は指2本が入ること、腹帯は、布[ズック]製の時には指3本が入る装着が正しかったが、ゴム製の腹帯が一般的になり目一杯伸ばして緊く装着させる方法が採られるようになった。

ちなみに、乗馬に装着する鞍は競技種目により“煽革(アオリガワ)”の形状が異なり「馬場馬術鞍」「障害鞍」「総合鞍」などに分かれるが、普通は万能型の総合鞍が一般的である。

D  8   誕生して“72時間”   (馬の臨界学習期)

 

 例えば、鳥が、孵化後、最初に見た動くモノを親と思い込むように、“生き抜く基本”を身に付ける学習時期「臨界」と言い、馬など被捕食動物は誕生後に行動出来ないと肉食獣の餌食になるから臨界学習期間が極めて短い。未熟出産である人間の場合は長く、言語を例にとれば、10歳ぐらいまでの言葉が根本「ネイティブ」となるのは周知のとうりである。

  野生馬時代、誕生直後から生命の危機に曝(サラ)されたので馬は生後72時間(3日間)が 臨界学習期間である言われています。もし、その72時間の間に「人に従う心」を持たせるようにすれば温和で素直な競走馬となり、可能性が益々大きく広がります

D  9   ミラー博士の基本的刷り込み<概略>

D 10   まず、一番最初に

D 11   1回目の基本的刷り込み

D 12   2回目の基本的刷り込み

          <我慢するポニーは駄目だ>

 馬事公苑の供覧ポニーが高齢化したので、シェットランド・ポニーを2頭輸入し、担当の山谷職員に調教を依頼した。すると、その内の1頭は“素直だから見込みがない”と言う。「1頭が供覧出来れば良い。想定内だよ」と激励した。  遠くから見ていたら、無理な動作を要求されたポニーは辛抱し切れず条件反射的な動作をしてしまう。そこで、この動きを褒める(角砂糖を与える)と簡単な刺激でこの動作を見せるようになる。この条件反射を連続させると「ポニーの供覧」が出来上がることになる。素直なポニーは無理な要求にも我慢してしまい、条件反射を見せないから調教出来ない事になる。

D 13   3回目の基本的刷り込み

             <理想の乗馬は?>

 

 サラブレッドを創れなかったドイツ人だが、その几帳面さと徹底した管理でハノーバー種やトラケーネンなど素晴しい乗馬を誕生させ、我国の乗馬選手の圧倒的な支持を受けている。 ある時、オリンピックを始め欧米を転戦した経験を持つ馬術選手3人に「世界中から好きな馬を買ってやる、と言われたら何を選ぶか?」と質問した。すると、3人が3人とも日本のアラブ(正しくはアングロ・アラブ種)、それが駄目ならセル・フランセ(フランスの乗馬)と答えた。「日本人の感性に合い、扱い易いからだ」と言う。「車と同じだよ。重厚・鈍重で馬力のある北欧馬より、動きが軽快で反応の良い馬の方が日本人向きなのは自明のこと「アラブの競馬が無くなるのは残念。日露戦争以来、日本人が育てて来た民族的遺産が消失してしまう」などと言う。

確かに明治の頃の世界では、“駿馬”は最良の兵器であり最高機密だから、気安く外国に輸出するわけもなく、反露国のハンガリーから苦労してギドラン号と言う名前のアングロ・アラブ種を入手してギドラン種として育てた歴史があったのだが。馬が娯楽の中にのみ存在する国では、そんな歴史も忘却の彼方にだな。

D 14   日々、これ研鑽

 

              海外研修で、ノーザンダンサー号ニジンスキー号を生産した                  

              カナダのウインドフィールズ牧場に滞在した時に遭遇した話

D 15   門(ゲート)は発馬機(ゲート)・くぐると天国          

                                                         [再び、ウJンドフィールズ牧場

発馬機は「スターティング・ゲートと言うが、厩舎人や関係者は略して「ゲートと言います

D 16   胴締め? でも、プロレスではありません

D 17  「成長遅れ」を“振り分け荷物(昔の旅支度)”で直す

 

          振り分け荷物・・・・江戸時代の旅行する町人が2個の荷物を紐で

                   結び肩の前・後に振り分けて歩いた

          <伝統馬事芸能>

 

馬事公苑・普及課長の頃、記者会見で理事長が「馬事文化を守る」と話した。そこで、いろいろ調査したら我国には400以上の伝統馬事芸能がある事が判った。そして、観光ベースに乗れた野馬追い(福島)・チャグチャグ馬ッコ(岩手)・ぼした祭り(熊本)などは良いが、ほとんどの実態は、篤志家の努力でやっと伝えられているに過ぎず、灯も消えかかっている。   JRA馬事公苑では毎年9/23(祝)を愛馬の日として全国の伝統馬事芸能を招聘して披露して来た。皇族や各国の大使の来場もあり、好評を博していた。招聘すると地方紙にトピックスとして取り上げられその行事が活発化する体験を重ねて来たから、その機会を出来るだけ多くの行事に与えようと言うことになった。限られた予算を有効活用するため、経費の掛かる有名行事は数年に一度と遠慮して頂き、新しい行事を入れ替えながら招聘する企画を立てて実施した。暫くして、転出したがマンネリ化の噂が聞こえて来た。各地の馬事芸能が、あの頃と同じに続いているのならば良いのだが・・・・・。神事だから一概には言えないが“イベントとして宝の山”だと思うんだけどネ!!

            <騎道作興・百練自得(キドウサクコウ・ヒャクレンジトク)>

 

 某調教師が「いやーア、やっと皆との約束が完結しました」と言った。「俺達は馬事公苑で教育されて“乗り役(騎手)”になった。卒業の時、30年経ったら、この騎道作興・百練自得の門の前に集る約束をして全国に散った。それぞれ都合や予定があって、実際には35年目の同窓会になったが、童心に帰って楽しかった」との事。その話を聞き、全日本学生馬術連盟の幹事長だった学生時代を思い出した。その頃は全国を五地区に分け、地域の利益代表の各地区幹事長が喧々諤々の主張をぶっつけ合う日本馬術連盟の小会議室での会議。ある時、白熱した議論の谷間の静寂に西日本地区幹事長がポツリと言った。「こんなエゴむき出しの会議でなく、十年以上経ったら馬事公苑の門の前で旧交を温めたいな。桜の頃に」「賛成、背負ってる地域の利害がなけりゃ楽だし、満開の桜の下での思い出話。良いと思うヨ」と北日本の幹事長が応じた。東京の学生は、いつも馬事公苑を利用しているから判らないが、地方の馬術部々員には憧れがあるらしい。“馬術のメッカ”だから球児の甲子園に匹敵するらしい。その後、馬事公苑に勤務した時、JRA競馬場の工事が延期となり余剰予算で門扉などを更新すると言う話が出た。あの門扉も廃棄するとの事なので「その由来」や「馬術人の思い入れ」を説いてモニュメントとして遺して貰った。

D 18   目を閉じ、耳を澄ませば・・・・

          <装蹄方法の流れ>

 

 馬を“神の依代(ヨリシロ)”とか“高貴な方の乗り物”と考えていた中世の我国では、人と同じように馬にも草鞋を履かせていた我国で蹄鉄を装着し始めたのは幕末で、当時、仏国が幕府軍を応援していたので、最初はフランス式装蹄だった

 明治になり、海軍はイギリス海軍、陸軍はプロシャ(ドイツ)軍を範としたので軍馬の装蹄はドイツ式となり、この方法が現在でも続いている

 戦前の競走馬生産のリーダー<下総御料牧場>では、サラブレッドと共にイギリス式の装蹄方法が持ち込まれて、独自にそれを実践していた。故・野平省三調教師は青年の頃、同牧場で装蹄師修行の経験があり、いろいろ御教示を受けた。大きな違いは蹄の返りを良くする「上彎の有無」と「釘溝の位置」の2点である。

D 19   氷解した不思議

 

                  昔、どうしても理解出来なかった事柄、2

             <それで、ハッピーなのか?>

 

海外研修の折、薦められて、北米最古の獣医大学グエルフ大(カナダ)のF.J.ミルン教授の研究室を訪ねて教えを受けた。マレーシア大学に獣医学科を創るなど英連邦各国で教鞭を執った人である。名誉教授となり、セイロン大学(スリランカ)で獣医養成の手伝いをした帰国の途中で日本に寄りたいとの手紙が来て、5日程滞在した。更に、2年後、獣医教育が六年制に移行する時に日本獣医師会の招聘講演者として来日し、忙しいのに次女の誕生日を祝ってくれた。その時、獣医職から管理部門に移った事を話すと悲しい顔をして「テリー、それでハッピーなのか?」と聞いた。 カナダでは獣医師の社会的地位が高いから理解出来ないらしい。   私が筆不精だから、手紙の交信もなかったのにある時、トロントでなくニューヨークから判読出来ないような手書きのクリスマス・カードが届き「君と知り合って良かった。有り難う」と読めた。4ヵ月後「ママは泣いてばかりなので代筆します。“ドクターと友人になれたので、少年の頃から憧れていた日本との絆が出来た”と言い、パパは天国に旅立ちました」と娘さんからの訃報が届いた。直ちに神棚の前で合掌した。こんな俺でも、きっと唯一の日本人の弟子と思っていたんだろうナ。

D 20   鉄を鍛えて鋼鉄にする?

 

 <人間にとって好ましい性格も矯正しなければならない悪癖も生れながらの心として 内包されているからその馬に関りを持ったヒトの接触の仕方で天使のような馬にも悪魔のような馬にもなる>と言われて来ました。 従って、「調教」や「飼養管理」のみならず、例えば、向かいの出張馬房に入った馬とか放牧休養先で隣の放牧場に居る馬にも影響されます。 しかし、寛容と言うよりも我慢強い馬達は人間のワガママや押しつけを受け入れ自分の意思を殺してヒトに合わせているのが普通の馬の姿です。だから、対応方法によっては“大化けする可能性”を秘めている

 

 「経験知は科学ではないから研究・解説の対象外と書斎学者は言う。 「それを誰がや         っても、何回やっても同じ結果が得られる事がサイエンス(科学)」とは世界的雪博士の話。  書斎から出ないのでフィールドワークは解りません?とは言えないんだな、きっと。 

 

 客観的高所的視点(高い所からの目線)を持って接触し、智恵ある対応

  優駿誕生に不可欠なことである

          <魔法のような技術>

 

 JRAにアラブの競馬があった頃の話。セリに出て来た2歳が、例えば脚が曲がっている等の欠格事項があり売れ残った馬を廉価で買う「家畜商(博労)」が居た。およそ8ヶ月ほどして、岩手の水沢あたりでの<3歳購買>に、その馬が現れると欠格事項は治癒・是正されて全く別の馬に変身している。方法を聞いても言葉を濁して「装蹄療法だ」としか言わない。あの人達の装蹄判断・技術は残り、今でも伝えられているのかなア。 (馬齢は当時の呼び方で書きました。従って、3歳→2歳 となります)

D 21   “日の丸駿馬”が世界を席捲するために

 

 《競馬産業》を考察してみると  <①血統・生産>   <②調教・育成>                 <③競馬施行>三峰がある。 我国の<③>は世界最高であり、<①>も一流国に追いつきつつある   あとは<②>が飛躍・向上すれば世界に冠たる競馬国になれる筈です。

 

 日本人ドイツ人集団になると素晴しい能力を発揮するとの定評があります。

  駿馬の育成・調教にも、この民族的特性を行かせる筈です。

D 22   “性格”を育み“性格”を知る

D 23   こんな事をしてみたら

                  “日の丸駿馬”が世界を席捲するために② 

D 24   観察・チェック・意見集約

D 25   観察⇒連絡⇒良・循環

                  “日の丸駿馬”が世界を席捲するために③ 

D 26   生きた教育をさせてくれ!!  《西山園長の実学》

D 27   へぇー、 そうなんだ。  (古老の口伝から)

          <競走成績も日和見感染>

 

 伝染病学に“日和見感染(ヒヨリミカンセン)"と言う現象がある。地球上で「人に都合の良い微生物は一割程度。逆に悪さをするのも同じぐらいの一割程度で、80%は文字どおり毒にも薬にもならない微生物である」が、その“日頃は何でもない微生物”が“悪い微生物”の影響を受けて感染症を引き起こす事を日和見感染と言う。    厩舎の競走成績でも同様な現象が起こる事が多い。 つまり、 一頭強い馬が出ると、他の馬も今まで後塵を仰ぐ強い相手を負かして勝ち上がる現象が起こり、厩舎は活気づく そんな経験を持つ人が沢山いるから、成績が今一つの調教師は“何とか看板馬が出ないかナ”と祈るような気持ちになる。

 

 

 

    雑誌“文藝春秋”「昭和41年7月号」から

 

         駄馬“幸早号”の栄冠

 

                   師岡輝夫(東京農工大馬術部マネージャー)

 

 昭和三十七年は私たちにとって憂鬱な年だった。この年、わが東京農工大馬術部は全日本学生馬術王座決定戦で優勝候補の筆頭にあげられていながら、調子がでないまま、ついに三位と言う不成績におわり、すっかりみんな意気消沈していた。

 たしかに理科系の大学なので実験や実習が多く、練習時間は十分とはいえない。春と秋は授業前と放課後、夏は朝だけ、冬は夕方だけの騎乗練習だ。第一、大学に入ってはじめて馬に乗るものが多く、馬術のイロハから習得していかなければのだから、中学高校時代から馬に乗っている私立大学の馬術部にくらべると、相当のハンデ・キャップがある。それをはねかえすのは、能率的な練習とチームワークだけなのだ。劣勢の試合を一気に逆転させるような切り札的エースが誕生しにくいのも、そんな事情による。

 

       ぎりぎりの肉値・六万円で買う

 

 それにしても三位とはふがいなかった。誰もがそう感じ、気分的に参っていた。ちょうどそんなとき、私たちは「この馬」と出会ったのである

 暮もおしつまった十二月のある寒い日、馬術部副部長の岡田十九郎先生が馬房(馬小屋)にひょっこり姿をあらわした。  「いま先輩のMから“芝浦の屠殺場に殺すに忍びない中半血の馬が入ったから、見に来ないか”と電話がかかって来た。せっかくの話だから、誰か行って見てこいよ」

 その頃の学生馬術界は、自馬による競技を盛んにしようという声が高まって、各大学とも優秀な繋留馬をふやそうと馬探しに懸命であった。もちろん、わが馬術部も例外ではなかった。しかし、なるべく金をかけずに、いい馬を探そうというのだから、むずかしい。

 岡田先生の話を聞いて、すぐに馬術部の者が数人、芝浦へ行った。馬肉寸前の馬だというので大して期待はしていなかった。見るだけでも見てみようという気持ちだった。

 その馬は屠殺場の柵につながれて、おとなしくしていた。まず目についたのは、背中に赤ペンキで大きく書かれた屠殺番号であった。馬体はすっかり汚れ、アカがこびりついてみるからにきたならしい馬だった。思ったほど痩せさらばえてはいない。むしろ肥え気味の馬だが、どことなく哀れ気にみえるのは屠殺番号のせいだろうか。ずんぐりとして距毛(下肢の後の長い毛)が伸び、血が重いこと(挽馬のような血統の馬)をあらわしている。それでも四肢は割合しっかりしているようだ。顔も柔和でどことなく品がある。でも馬の良し悪しはやはり乗ってみなければわからない。一人がペンキがつくのもかまわず飛び乗った。広場を歩かせてみると、以外に推進力のある歩きようで、反動も柔らかいという。「下駄馬(練習場)にもってこいだよ。買おうじゃないか」「部費をかき集めれば四万円くらいならなんとかなる。四万円なら買おう」こちらの相談はすぐにまとまった。          

 ところが肝心の馬主の方が、七万五千円でなければ絶対に売らない。それ以下なら馬肉にした方がましだ、というのだ。まけろ、まけられない、としばらく押し問答が続いたが、馬主はガンとして値下げに応じてくれない。とうとう私達の方が根負けして、「とにかく部に帰ってよく相談してくるから、殺すのはもう一日だけ待ってほしい」と期限をきって頼みこんだ。

 早速、その晩緊急役員会が開かれた。すったもんだのあげく、「乗ってみて仲々よさそうな馬だから買う。ただし、部には今、四万円しか金がないので、できるだけ四万円に近い値で買うこと」との結論とも言えない結論をひねり出して緊急役員会を終った。

 翌日、再び芝浦へ駆けつけた。先輩の口添えもあって、結局、ぎりぎりの肉値だという六万円で引きとることに決まった。馬を手に入れたことは何よりだったが、頭が痛いのは不足分の二万円をどうするかだ。

 当時のマネージャーのKさんが数日間、東奔西走して知り合いから二万円を借りて、やっと馬主に支払うことができた。しかし、のちのちまでこの二万円の借金は返済できず、馬術部の者が借金先に家庭教師のアルバイトに行き、その労賃で何とか清算したのであった。

 

       馬糧かせぎのアルバイト

 

 このように、国立大学のサークル活動ですぐつきあたるのはお金のカベである。私たちはこの馬のときのみならず、いつも貧乏所帯で、馬に火の車をひかせているものである。

現在、わが馬術部には繋留馬が九頭いる。そのための最低必要予算は年間百二十万円。そのうち、黙っていても確実に入ってくるのは三十万円。残りは月五百円の部費(部員は約八十名)と、先輩の寄付だが、それでもまだ足りない。そこで、私たちがアルバイトをして、穴を埋めることになる。   このアルバイトはどうしても馬関係が多くなる。輸出入馬の検疫中の飼養管理、馬匹の陸送、馬に関する洋書の翻訳、競馬場の場内や駐車場の整理、乗馬クラブから撮影所までの馬匹輸送などだ。しかし、これらのアルバイトはつねに一定してあるわけではない。しかるに馬は人の気も知らないで、一定の馬糧を情け容赦もなく平らげる。しかも馬糧はすべて現金取引という厳しさだ。だから、年に何度かは馬術部総出で、不本意な肉体労働もしなければならなくなる。それでもみんなメシより馬が好きだから、文句も言わずに働く。この馬のときのように、家庭教師で借金がかたずいたのは、ありがたいことだった。

 この馬を農学部のトラックに乗せて屠殺場から帰って来ると、岡田先生が待ちかねていたように出てくる。先生は一目見るなり、「こりゃひどい馬を持ってきたなあ。これで使いものになるかな。ま、とにかく歩かせて見ろ」とあきれたような口ぶりである。私たち異常の専門家の首をかしげさせるようでは・・・・・・といささか不安になる。しかし、歩かせてみると先生は、「いや、みかけはさっぱりだが、非常にいい歩様をしている。これなら結構使えるだろう」との見立てがでて、一同、ホッとする。これで六万円が無駄にならなくてすんだ。あとでみんな口々に話しあった。「岡十(岡田先生)にほめられてホッとしたなあ。岡十の相馬(馬の良し悪しの判断)はたしかだからね。それに、屠殺場の柵の中ですっかり観念した馬を見ると、何だかやけに可愛そうになって・・・・・どうしてもオレたちが立派に育ててみせるぞ、という気持ちになったね」

 さて、いよいよ、この風采の上らぬ馬に名をつけなければならない。もし将来、強くなってもおかしくないような立派な名前をつけてやりたい。「まあ、この馬は危ないところで命を助けられて、うまくゆけば、やがて試合にも出られるようになろう。今後も幸多かれ、という意味で“幸早(さちはや)”と呼ぼうじゃないか」。岡田先生の命名で、すんなりとこの馬は「幸早」と決った。これまで、わが馬術部では、馬名を栗早、千早、武早、善早・・・・・と、だいたい「早」で統一しているのだ。

 

       馬にも住みにくい東京

 

 「幸早」は育ててみると仲々賢い馬だった。血統的にみても中半血種は、馬車馬によく使われたノルマン種やハクニー種などと、サラブレッド、アラブ、トロッター種などの、いわゆる血の軽い馬との混血であり、あたまの良い血種なのである。ところが、「幸早」は少し肥え過ぎ気味だった。馬も人と同様、肥えすぎは好ましくない。馬格はどちらかといえば小型なのに五百二十キロもあるのだ。理由はすぐにわかった。寝ワラを食うためである。調教された他の繋養馬は、寝ワラを食うといった卑しいまねはしない。ところが、「幸早」だけは、毎日夕方に入れてやる寝ワラが、翌朝には必ず減っている。農耕馬だった「幸早」はこれまで馬糧も満足に与えられず、毎日投げこまれる二、三束の寝ワラを食べて、空腹を満たしていたのだろう。そう思うと、肥えすぎた「幸早」が、いっそういじらしくなってくるような気がした。馬糧は毎日四升の圧し大麦と同量のフスマ、それに青草(冬は乾草)、食塩、添加飼料などである。ときどき、この馬糧が思うように入手できなくて、やむなく減らすこともある。そんなとき、「幸早」は他の馬とちがってケロッとして昼間から寝ワラを食い、ゴロンと寝ころんで涼しい顔をしていた。そういう私たちにとって都合のいい一面をもった、雑草のような強さのある馬だった。しかし、一度こんなところをヒョンなことから先輩に見つかり「馬を虐待するとはなにごとか」とひどくお目玉をくらったこともあった。馬にたいする愛情は誰にも負けないと思っているが、こんなときほど貧乏サークルの悲哀を味あわされることはない。この頃は青草だって、たやすく手に入らない。郊外の住宅化が進んで、草がなくなってしまったのだ。以前は、乾草といえば、夏休みに近くで草を刈っておけば十分間に合っていたのだが、この頃はそれもできなくなり、昨年からは信州霧ケ峰の大山牧場で働き、その代償として乾草をもらうことにした。東京の住宅難のあおりは、馬にまで及んでいるのである。

 「幸早」が新しく厩舎馬房に入ってしばらくたつと、ちょっとした事件がもち上がった。これまでボスとして君臨していたアラブの錦蘭号が「幸早」を見初めたのである。「錦蘭」は昔、中央競馬十四連勝の記録をもつ競走馬だった。だいたい大学馬術部の馬は、故障した競走馬を無償か、ほんの礼金程度で払い下げてもらったものが多い。それはともかく、「錦蘭」に見初められながら「幸早」は、さっぱり気がない。「錦蘭」には見向きもしないのだ。「幸早」はどうゆうわけか繋留馬の中で一番気の小さい「栗早」に熱を上げている。意中の「幸早」に冷たくあしらわれた「錦蘭」は、気が立ったのか、ひどく暴れるようになり、私たちは始末に困ってとうとう去勢してしまった。可愛そうなようだが、これも仕方がない。去勢された「錦蘭」は、すっかりおとなしくなり、ボスとしての貫禄まで失われた。すると、代って「幸早」が次第に女ボスとしての勢力を示しはじめたものである。そしてときによると意地悪バアサン的な振舞いもしはじめ、私たちはその図々しさにあきれた。

 

       試合度胸は満点だ

 

 「幸早」の調教は順調にすすんだ。調教は例によって、まず地面に横木(丸太)を置いて、それを跨ぎ飛びこすことからはじめる。そして次第にその横木を高くしていくのだ。

その内に横木がかなりの高さになると「幸早」は左右に切れる(障害を避けて通る)ようになった。調教中に突き当る、まず第一のカベである。しかし、横木の前で立ち止まらないのは、脈のある証拠でもある。こんなときに無理をしてはいけない。 「愛馬心とは馬を大事にすることだ。大いに馬を可愛がらなければいけない馬の振舞いから、その気持を汲取り馬が満足するように尽してやれ。しかしそれは甘やかせということではない。大事にし、かつ一切の妥協を排して厳しく調教し、その馬の隠れた能力をすべて引き出してやることだ。それがほんとうの愛馬心だ」。私たちはそう教えられてきた。そこから調教時の原則が生れる。即ち「毎日乗る」が「怪我をさせない」、そのために「無理をしない」「あせらない」・・・・・ことだ。   「幸早」は調教をはじめてから二・三ヶ月で障害飛越も結構うまくなった。一メートル二十くらいは、いつでも飛越出来る安定した力を見せはじめた。これは私たちには意外でもあり、また、ひどくうれしいことでもあった。現金なもので、進歩が早いとますます調教にも熱が入る。「幸早」と私たちの歯車がうまくかみあってきた。こうして「幸早」の調教は、約半年で九分九厘終ったのである。

 さて、繋留馬を試合に出すためには、関東および全日本の学生馬術連盟に登録しなければならない。それには馬名だけでなく、性別・毛色・血種・父母名・年齢・出生地・特徴・烙印などを明記しなければならない。馬名「幸早」、毛色「栃栗毛」、血種「中半血」まではいいが、父母、年齢、出生地になると、まるっきりわからない。そこで父母の名は「幸早」にかこつけて父「早風」、母「幸姫」と架空の名前を書きこみ、年齢は推定で八歳、出生地は秋田(馬主が秋田の人だったので)として届け出た。写真を添えて、こう記してみると、どうして、仲々立派な血統の馬にみえると、私たちは自画自賛した。

 「幸早」の初陣は三十八年五月だった。都民体育大会馬術の部、六段飛越競技に当時の主将Iさんが騎乗して出場した。調教では、かなり安定した力を見せたものの、「幸早」にとっては、初めての試合である。晴れの舞台に上がって、ヘマをしないかと内心ハラハラしながら「幸早」の動きをみつめた。

 六段飛越競技というのは、狭い間隔で一直線に六個の障害を並べ、しかも、その障害が第一のものより第二が、第二より第三のものの方が高くなるという一種のハードル競技のようなものである。そして障害を次第に高く上げて過失馬を篩(フルイ)にかけ、勝負を決するという競技である。この時「幸早」は、これまで試みたことのない一メートル五十まで飛越し、堂々、二位にくいこんだ。

 「いやあ、こんなにやるとは思ってもみなかったな」。騎乗したIさんも汗をふきながら、狐につままれたような面もちで言う。私たちも「幸早」の試合度胸のよさに唖然とした。上々のスタートを切った「幸早」は一ヶ月後、乗馬クラブ連合会主催の中障害飛越競技に出た。このときは鐙革(アブミガワ・足ヲ掛ケル所ノ支エ革)が切れて騎乗者が落馬し、惜しいところで三位に終わった。しかし「幸早」の障害飛越はすっかり安定してきたことが分かった。これは大いに使えるぞと、内心ワクワクしてきた。

 ところがしばらくして、「幸早」は原因不明のビッコになった。馬の病気は恐ろしい。なかでも特に伝染性貧血(俗に伝貧という)が最も恐ろしいものである。世界中でこの病気の研究がつづけられているが、いまだに原因も治療法もわからない。伝貧馬と診断されたら、直ちに殺して伝染を防ぐしか手がないのだ。私たちの馬術部でも、八年ほど前、伝貧馬をだしたことがある。六等いた馬全部に、あっという間に伝染し、泣く泣く六頭とも殺してしまった。このとき主将だったKさんは、責任を感じて縊死している。こののち一年は、私たちの馬術部には一頭の馬もいなかった。がらんとした馬房、馬のいない馬術部 ーーーーどんなに寂しかっただろう。馬は私たちのかけがえのない手足だ。いや、命だといってもいい。 「幸早」のビッコの原因は不明だったが、大して悪化することにもならず、半年ほど休ませると、さいわいもと通りに回復した。多分、長い農耕馬時代の疲れがでたのだろうと思う。私たちの副部長の岡田先生は獣医学科の助教授であり、構内に住んでおられるので、馬の様子が変だとなると、真夜中でも診てもらうことができる。「幸早」も何度、岡田先生の世話になったかわからない。馬術部に入ると、盆も正月もない。そして馬が病気にかかると、昼も夜もなくなる。しかしそんな辛い目にあってこそ、人は馬と一段と強く結ばれるものである。

       

       「幸早」の育ちの悪さ

 

 みんなの手厚い介護で元気になった「幸早」は三十九年六月から再び試合に出場するようになった。 最初は新潟国体であった。このとき「幸早」は六段飛越で二位、中障害飛越六位というまずまずの成績をあげた。高い障害となり、この時の「幸早」の飛越を見ていて面白いことに気づいた。障害飛越とは、文字どおり障害を飛び越えることで放物線を描くように飛ぶのだが、「幸早」の飛越は目に見えぬ何かをよじ登るような格好でとぶのである。あまりスマートな飛び方ではない。それが、育ちの悪さを意地でカバーしているようにも見えて「幸早」にぴったりの障害飛越だと思った。このとき「幸早」は東京から新潟まで、自動車で運ばれた。ところが、本来、農耕馬であった「幸早」は長時間車に乗った経験がない。熱を出した。いわゆる輸送熱である。育ちの悪さ、過去の不遇な生活の跡が、ひょんなところで顔を出すものだ。

 その後「幸早」は着実に好成績を重ね、癖のない素直な馬としてぐんぐん成長した。 昨年八月には、日本馬術連盟が馬術人口を増すために民間に駿馬を繋養させるべく、連盟の指定馬を選考した。この選考試合で「幸早」はみごと(飼育補助金が支給される)指定馬となった。押しも押されもせぬ有力障害馬の部類にはいったのである。農耕馬から障害馬へ、順調すぎるくらい順調な成長振りだった。

 今年三月二十四日、東都学生自馬競技大会が世田谷の馬事公苑でひらかれた。金がなくて馬運車を頼めない私たちは、試合の前の日に府中から世田谷まで四時間ほど歩かせて運ぶ。血の軽い他の馬だと、この道のりを往復すると必ずといっていいほど肢が腫れ上がる。しかし「幸早」は流石に長年重労働に耐えてきた農耕馬である。そんな事で肢が腫れたことは一度もない。この競技会では「幸早」にピエッサンス(特殊大障害)をやらせてみることにした。「幸早は典型的な中障害馬だけど、この程度のピエッサンスなら何とかやれるだろうし、僕は幸早の最高能力が知りたいんだ」主将のO君はそう言って、自ら「幸早」に騎乗した。少し不安はあるが、それもいいかもしれない。うまくやりとげれば「幸早」はさらに自信をつけるだろう。

 試合前の予想では、学習院大の嶺桜号が実績もあり有利だと言われていた。それにつづくのが「幸早」をはじめとするわが校の三頭などである。中障害競技で学習院にせんこうされた私たちは、大会の華ともいわれる大障害では是が非でも勝ちたかった。この競技の最高障害は一メートル四十で、それが三個だから高さはたいして問題ではないが、経路が非常に複雑なのが特徴だ。飛越に入る誘導に難しさがある。競技がはじまると、優勝候補の嶺桜号をはじめ、銜(ハミ)が柔かい(馬を思うように動かしやすい)と定評がある馬が、次々と減点を重ねる中で「幸早」だけは着実に無過失で経路を通過する。元々銜が柔かいが、この日は間歩のとり方や飛越の踏切りもうまかった。人馬の呼吸がぴったりあって「幸早」は能力以上の力を出し、思いもかけぬ優勝をさらってしまった。

 

 

       自分の目を疑った

 

 みんな茫然とした。「幸早」が優勝するなんてほんとうだろうか。夢ではないのか。

 五年前、アカペンキで屠殺番号を書かれたあのうす汚れた馬が優勝するなんて!私たちがひきとってからも、真昼間から、だらしなくゴロンと寝ころんでいた「幸早」が優勝するとは!私たちは自分の目を疑った。しかし、たしかに「幸早」は勝った。私は、ふいに、二年前、馬事公苑で「幸早」と一緒に寝たときのことを思い出した。一つしかない寝袋を下級生に貸して、私は馬糧と鞍下(鞍のしたに敷き馬の背を保護する毛布)とワラを被って寝ていたら、夜中に雨が降ってきた。やむなく「幸早」ほいる馬房のヒサシのかげに移動した。うつらうつらしていると、激しい水音が頭の近くで聞こえた。雨か?目をあけて見ると「幸早」が排尿しているのだ。作業着の袖には糞がくっついている。尿は生あたたかいしぶきをあげ、音をたてて流れていた。「恩知らず奴!」

 だが、「幸早」は恩知らずではなかった。私たちの心をこめた世話、育む調教をちゃんと心得ていてくれたのだ。優勝した「幸早」を見ているうちに、私は叫びたくなった。

「並みいるサラブレッドやハンターよ、お前たちは屠殺されかかった農耕馬に勝てなかったじゃないか!!これがオレたちの育てた幸早なんだぞ」つづいて涙がこみあげてきた。

 

 

 ※ 雑誌文藝春秋」昭和41年7月号掲載されたものです。

 

 ・ 発端は「毎日新聞のコラム欄」に載ったことから、人口に膾炙しました。

 ・ この「文藝春秋」を読み感動したJRA理事長から表彰され、六万円頂戴した

 ・ その御蔭で「幸早」の前歴が判明しました。当時の日本は、高度成長の最中で、

   耕運機が農耕馬に取って代り農村も大きく変わった時期でした。

 ・ 国体馬術競技の秋田県代表・渡部選手の出場予定馬が故障した。                 

   県代表だから騎乗して参加しなければならず予備馬を用意する必要があった。

   商用で青森県八戸市へ行き郊外の田圃で稲ワラを運んでいる馬を見て「下駄馬

   (乗るだけの馬)」として購入した。しかし、直に故障馬が治癒した。

   不用になったその下駄馬を家畜商に売った。家畜商は太らせ芝浦屠場に運んだ

 ・ 蛇足ながら、昭和から平成に替わって文藝春秋社が掲載記事を集めて「昭和史

   の現場に居た」本を作り載せたいとの話があったが、諸般の事情で辞退した。      

 

  「幸早」は、後に千葉県のマザー牧場に移り余生を送ったが、牡駒を出産した。